昭和43年4月8日 朝の御理解
中村良一
大天地に対する、私共、人間氏子の事を、小天地と言う風に言われます。天地が備えておる、一切のものを、人間は、備えておると言うのです。ですから、そこのところに、気付かせて頂いて、いわゆる、天地の心を心とするのでございます。それが、信心ですが、私は、いわゆる、我情我欲が、天地の心を曇らせてしまっておる。そういう意味で、教祖の神様のご信心というのは、本当にあの、天地の心を心としての、生きられ方が、自ずとして出来ておられる。そこに、教祖の神様の真価というかね、本当のお値打ちというものがある訳で、天地の親神様も、此方、金光大神あって、神が世に出たとこう仰られるほどに、天地の親神様が、世に出られるという事という事は、教祖の神様御出現ということと、同じであるほどに、教祖の神様は、素晴らしいお方であったという事が言える。実意丁寧神信心をなさる。その、実意の限りを尽くしておられる生きられ方。教祖の神様の、日々の、いわゆる、御生活そのままが、天地の働きと同じものである。そこんところに、私共は、そこんところを分からせて貰い、そこんところを信じさせて貰うて、教祖の神様の、生きられ方を、私共が、神習わせて頂くというところに、お道の信心があります。教祖の神様ならば、こういう時に、どういう風にして、お通りに、なったのだろうか。そのお通りになられた、その事が、天地の心を心として、辿っておられる、生活をしておられるのです。
今日は、私は、天地の心を心としてという、その、地の心、天は、限りなく与えるものと。いわゆる、私共が、限りなく美しゅうなりましょうというのも、限りなく、美しゅうならなければ、限りなく与えられない。汚い根性が出る。これでは、天の心を買う訳です。ただ、自分の我情我欲が汚くすのですから、我情我欲を取れば、綺麗なものに。その綺麗な心で、限りなく奉仕する。それが、天の心です。そういう心が、ほんなら、私共の心の中にもあるのだけれども、我情我欲で、困っておるだけの事。真性、物欲、様々なその、欲のために、それが、鈍ったり、曇ったりして、いわば、汚い事を言ったり、したりしなければならん。これが、天の心。今日は、その、天は、限りなく与えるもの。そして、地の心というのは、どういう事か。
前日も、そこの、合楽食堂の中村さんとこの、地鎮祭がございました。地を鎮めるお祭りと。地に、お粗末御無礼が出来ておる。不浄がある。それを、清め祓わせて頂くという式なんです。ですからその、地を清める、祓うという事は、ただあの、大幣(ぬさ)で、こうやって祓えばね、清められるかと言うと、そうじゃない。御神酒を撒いてさるけば、もうそれで清まるかと言うと、そうでももない。これは、一つの神事ですからね。それは、それが、多少、甘木の親先生じゃないけれどもその、大体、大祓いの時に、あの、祓って頂くのは、ちった、効果があるもんでしょうかち言うてから、言わっしゃるのを、見た事があった。そりゃ、祓うて貰わんよりか良かち言わっしゃったそうです。祓うて貰わんよりか良かち。それで、皆さんでも、月次祭の時にはね、あの、お祓いの行事がある前に見えなきゃいけませんよ。お月次祭の時にはね、あのお祓いを、みんなで受けてから、お祭りを受ける。祓わんよりか良か、気持ちを清めてから、そして神様へ向かう。お祭りを受ける。それこそ半分もないくらいですね、お祓いを受けよる人は。お祓いは、そういう意味で、有難いのですよ。まぁ、これは余談でしたけれども。ほんなら、今の地鎮祭、ね。地を鎮めるというかね、まぁいうなら、大地の、この頃の地震の時に、ここで、何ち言うかな、渡辺先生が、もうあの、ぐらぐら揺れる時に、神様お鎮まり下さい、お鎮まり下さいと言うてその、言われた。いわゆる、お鎮まり下さいなのである。地鎮祭というのは。どこに、お粗末が、御無礼があるか分かりません。人間氏子の事で、相分からず。どこへ、お粗末が、ご無礼があるやら分かりません。だから、お祓いをしなければ、それで済んだとは思いません、という様なもので、やはり、地鎮祭はなからにゃいかん。そこで、今日、私はその、こちらの方の地鎮祭が必要だと言う事です。人間氏子の地鎮祭です。
今日は、その、私共の、心の中には、天地の様相というものをですね。天地の心というものを、みんなが、治めておるんだ。大天地に対するところの小天地と、だから、言われております。天は、限りなく与えるもの。限りなく、これは人間だけじゃありません。生きとし生けるものの上に、それこそ、無条件で奉仕をする。そこで、私共の心の中の、天の心もです。無条件に奉仕する心というものが必要だ。そういう意味で、御用が有難い事が分かるでしょうが。おかげば頂かんならんけん奉仕するのじゃいかんのです。無条件、無条件に奉仕する。無条件に、与えて与えて、与え切るもの。皆さん、与え切るものにならなきゃいけんです。そこでその、限りなく、美しゅうなりましょうというのです。美しゅうなからなきゃ、与えて与えて与え切れない。反対に向こうから貰おうごとある。汚い心になってくる。与えて与えて与え切るもの。だから、私共がです、そういう、与えるという事をですね、私共が、一切の上に奉仕をする。お商売をさせて頂く人は、お商売の上にお客さんに奉仕する。奉仕の心。それが天の心。私は、天の心は、与えて与えて与えて止まない。だから、限りなく美しゅうならなければいけないというところまでで、皆さん、今日、分かって頂いて、いわゆる、この地の心。私どもの心の中に、天地の様相というものがあるのだ。小天地という、一切のものを治めておるのだ。それが、我情我欲のために、天地の様相も何もあったもんじゃない。本当に、汚い、あさましい、いわゆる様相になってしまっておるのだ。そこに、信心がある。そこに、いわゆる、私共は、教祖の神様の生きられ方。教祖の神様の御生活態度。その御生活態度というものが、そのまま、天地に通うものがあった。そこに、天地の親神様から、かって、こういう氏子を見た事が無い。実意丁寧神信心致しおる氏子と、こう仰った。天地書付の中にじゃない、ちょっと忘れた、立教神伝ね。立教神伝の中にも、実意丁寧神信心に対しおる氏子がある。というのは、教祖をさしておられるのです。実意丁寧神信心致しておる氏子という事はです。もうその、実意丁寧の生きられ方というものが、そのまま、天地の心を心としての生きられ方であったという事なんです。与えて止まれない心。同時に、大地の心。それを備えておられた。だから、お前が一つ、世の中の難儀な氏子を、取次ぎ助けてやってくれと仰った。そこで、私共は、お取次を願うからにはです。お取次を願うからには、お取次を頂かなければならない。お願をするからには、ほんなら、ご理解を頂かなければならない。いわゆる、教祖の神様の生きられ方を頂かなければならない。御理解というのは、全部そうなんだ。教祖の神様の生きられ方が、あぁいう言葉になって現れておるのだ。それを、皆さんが頂いて帰って、だから、御理解を、御教えを行ずるという事は、教祖の神様の生きられ方を、私共は、神習わせて頂いておる事になるのである。ですから、一言一言の中に、御教えを元にして、または、教祖の神様ならば、こういう時に、どうなさったであろうかと。自分の汚い心が起こっても、その汚い心を払うて、ね。いわゆる、美しい心で奉仕するというか、で、また受けるというか、そういう心の為にならなければいけんのです。お互いの心の中に、神様と同じ心があるという事、一切の上に、生まれた時から。天地の心を心としておるということ。
そこで、今日、地の心、地の心ですね、いわゆる地鎮祭。私どもの心の上に、その地鎮祭が要るのだ。お祓い行事で、祓うて貰うただけでも、幾らか、そりゃ、せんほうが良い。それは、やっぱりですね。祓わんよりか祓うた方が良かという事は、あの、大祓い式というものを、去年、初めて、ここで致しましたですね。ちょうど、千台近くの車を祓いましたですよ、あの時に。見てごらんなさい、全然、事故が無いでしょうが。大体一般ではですね、常識としては、四台に一台は、一年に事故になるという事だそうですよ。だから、四十台の自動車がありゃ、十台は、事故があっても良い訳なんですよ。ところが、ないでしょうが。やっぱり、祓いの威力です。お祓いを受けとかにゃいかんです、やっぱり。それは、全然皆無じゃなかった。高芝さんとこどこかあった。けれども、これなんかは、全然、事故に合ったけれども、向こうのほうが持ってきたのであってから、いわば、元の通りにして貰う。こちらは、兄弟二人乗っとったけれども、怪我いっちょしとらんという様なおかげでしょうが。まぁ一件、そこかあったですね。やっぱ、同じような事でした。ですから、やっぱりこの祓うという事が、一つの神事ですから。そういう一つの、まぁ霊力、威力というですかね、が、そのあるですね、やはり。と同時に、今度は、私共の心を祓うというのである。いわゆる、自分の心を治めるという。
人間凡夫の事で相分からず、どこにお粗末御無礼があるやら分かりませんという様な、ご無礼だけではなく、自分で気づいて汚しておる、自分で気づいて、ご無礼が出来ておる事があるでしょうが。信心しとって、どうしてこんな汚いことば言いよるじゃろうか。信心しとって、どうしてこげな汚いことばしよるじゃろうか。自分の心の中に、こうね、手を置いて考えて見るとです、ございましょうが。だから、そういう事を詫びなきゃいかん。詫びて詫びて詫び抜かにゃいかん。そういう、自分の地の心にね、大地の心の中にです。卑しく、不浄を犯した訳なんです。また、それと同時に、人間凡夫の事で相分からず、どこにお粗末御無礼が、いつの間にか出来ておるやら分かりませんという事。いいえ、私はもう、限りなく美しゅうならせて頂いて、もう、心は何時も、美しゅう清まっておりますと言うことはない。そういう生き方をしておる人でも、人間凡夫の事で相分からず、これで済んだとは思いません。どこにお粗末が、ご無礼があるやら分かりませんという御無礼をです、お詫びしていかにゃいかん。そこんところを、お詫びをする、平身低頭、神様の前にお詫びをして行くところの信心が必要なのである。そこでその、お詫びがです。これからが祓うとこですよ。ほんなら、お詫びをしただけでは祓えないと。口だけで行くかも知れん。済みまっせん、済みまっせんだけじゃいかん。済みませんなら、済みませんのですね。済みませんのしるしが要る。お互いの心の上に、地鎮祭が、ね。どうぞ神様、治まって下さい、治まって下さい。お鎮まり下さい、お鎮まり下さいと言う風に、自分の心がです。お鎮まり下さいという願いが要るのです、お詫びと同時に。ほんなら、心が鎮まると、どういうことになってくるか。日頃頂いておる教え、日頃頂いておる信心がです、はっきり出てくるです、ここに。心が鎮まってくると。心が鎮まっていない、カーッとなるから、どこに教えが頂いておったやら。それこそ、教祖の神様なら、親先生なら、こういうとき、ここをどういう風にお受けになるであろうかと言うような、思うゆとりすらが無いでしょうが。地が鎮まってござらない。心が、例えば、天地がですね、その特に、地が、ほんなら、荒れてござる。そこにね、例えば、良い種を蒔いたっちゃ、良いおかげの花は咲きませんですよ。
今朝、私は、お夢を頂いた。それがその、地鎮祭に行こうという訳です。どこへか、地鎮祭に。そりゃもう、大祭のごと、いろいろ準備がしてある。それでその、ある人がですね。私が、まぁ嫌と言えない人なんです。ほらもう、鯛も大きかつでなからにゃいかん。鰤も、こげな大きかつでなからにゃいかん。酒はもう、極上のあれを、こがしこお供えせにゃいかん。地鎮祭であるところの、そげん、もう、金出すとはこっちじゃもんだけん。金ださせようち思うちから、あげなこつばっかり言わっしゃると、私が思いよるとじゃん。そしたら、そこにあの、私はあの、高橋さんの車が来た。それでその、高橋さんの車に、これから地鎮祭のあるところに連れて行って貰うとこらしい。そして、私が、はぁ高橋さんちいや、この車に乗せて頂くということは、これは、お取次を頂くという事と思うた。それで私は、自動車に乗らせて頂いてから、思わせて頂いた。あの人は、私に金ば、うんと出させよる。うんとお供えばさせようと思うて、あげん、言いござるごたるけれども。お取次を頂かせて頂こう。そして、お取次を頂かせて頂いたら、私の心の中に感じた事は、私が、この正月から、今日に至るまで、ずっとこれは思い続けておる事。いよいよ、豊かになろうということであった。はぁ、こげな思い方じゃいかん。俺に金ば出させようと思いよる、お供えをさせようと思いよる。もう、向こうの心が知れん。まぁ、出すこつは出したばってんから、どうした、あれは汚い人間じゃろうかち言うてから、こっちは相手ば思いよる。お取次を頂かせて頂いて、高橋さんの車に乗せて頂いて、初めて分からせて頂いたことは。今、私が、ずっと思うおておる。はぁ、ここはいっちょ、豊かに受けなきゃいけんとこう思うた。そしたらです。どこからか、声が聞こえてくる。これで、地鎮祭が済んだというお声を頂いた。これで地鎮祭が済んだちいう。私の心の中の地鎮祭が済んだ。神様へ対してのお詫びをね、例えば、今も申します様に、どこにお粗末御無礼があるやら分からんと言う、お粗末御無礼。または、知って犯しておる御無礼。それを、一生懸命、お詫びをするということは、そのお詫びの実証がです、お詫びのしるしがです。一日の上にです。自分の心にはばからない。惜しい惜しいと思うような心の場合でも、様々な、例えばその、難儀なら難儀と言うものに直面した場合。これを、豊かな心で受けるという事が、日頃の、お粗末御無礼、大地の荒れてござる、大地が不浄になってござる。ね。この不浄と言うのは、成就しないという事ですよ。自分の心の中にも、おかげの頂けない、成就しない、そういうお粗末御無礼が出来ておるとです。それを祓わせて頂く行事になるという事です。ですから、いよいよ、私共が、豊かな心にならせて頂いてですね。その事を、有難く受けさせて貰う。そこに、私は、繰り返し繰り返し、お粗末も出来ましょう、ご無礼も出来ましょうけれども、そのお粗末御無礼が、いわゆる、これで地鎮祭が終わったという事になるのです。そこに、自分の心が治まってくるのです。その心に、おかげを受けられるのです。そういう心がです、例えば、いうならば、もう祓わんでも、御神酒を撒かんでもです。これが、天地の心を心として頂けれるようになったら、大したことなんですけれども。そこんところを、教祖の神様は、完璧なまでに、そこのところが、お出来になられたお方である。ですから、私共が、教祖の神様の、その生きられ方と言うものを、私共が、日々、神ならわして頂くという事は、絶えず、自分の心の大地を清めて行く事になる。不浄を祓うて行く事になる。だから、そこに、喜んだ根が蒔かれるから、喜びの芽が出て花が咲いて、おかげの世界に済む事が出来るのであります。天は与えるもの。限りなく、私共に奉仕して下さってある。ですから、天地の心を心とするというためには、まず、私共が、美しゅうならせて貰うて、限りない奉仕を惜しんではならない。限りなく与える心を頂くために、限りなく美しゅうならにゃいかん。同時に、地の心。これは、私共がもう、何時も、いわば、地鎮祭をする気持ちがなからなきゃいかん。
大地の心が治まったおらなければです、おかげが受けられん。そこで、そのお粗末御無礼を、お粗末御無礼、お詫びのしるしに、例えば、難儀な問題、損になる様な問題、困った問題が起こったらです。起こって来てもです。それを、困った事やら、嫌なことだとせずにです。はぁ、これで、これでお取り払いが頂けれる。これで、お詫びが叶う。これで、自分の心が、大地が清められるんだと思うて、日々の、信心生活をさせて頂いたら、おかげが受けられるというのです。ですから、私共は、私でも、豊かな心を、豊かな心をと、何時も思い続けておりながらです。夢の中で出てきておることは。もうこれが、俺に金ばかり出させようと思いよる、と思いよる時です。豊かになっとらん、豊かに思いよるけれどもなってない。けど、そこにゆとりがあった。高橋さんの車に乗せて貰って、はぁ、橋と言うのはお取次を頂く。そこで、初めてお取次を頂く気にならせて頂いた。そして、日頃の、思うておる、豊かな心を、取り戻しておる。はぁ、ほんにそうたい。こここそ、豊かな心にならなきゃならん、豊かな心で受けなければならんと思わせて頂いたら、これで、地鎮祭は済んだと思った。そういう、私は、おかげをね、お互い、頂いて、その事をです、本気で、信じさせて貰うて、行く事が、私は、天地の心を心とさせて貰う信心だと、こう思うのです。私の心が、きたないから詫びた。お詫び申し上げます、お詫び申し上げますばっかり、どうも済みませんばっかりじゃいかんて。そんなら、お詫びのしるしに、そのような、やはり、地鎮祭がなされて、初めて、その心が、平常になり、清められて、その清められた心の上に、おかげが、また限りなく頂かれるのです。どうぞ。